草の根と“観客”の狭間で。

大学生で、議員さんのインターンをやっていたとき。障害者の方がいる病院の視察に連れて行ってもらう機会があった。

その帰り、車の中で感想を求められて、「自分が五体満足でよかった。親に感謝しなきゃ」という類の発言をしたときに、その議員はこう言った。

「でも、あなたがいつそういう障害を負うか分からないんだよ。だから、そうならなくてよかったじゃなくって、そうなったときに、それを意識しないですむ環境、そしてそういう方が少しでも幸せになれる環境を考えるっていうことが必要、それは回り回って自分のためにもなるんだから」、と。

どこかで観客になっていたのだ。

あの人達はかわいそう。でも自分たちは恵まれている。だから助けなければならない、と。

そう思うことで、少しでも「参加している」「当事者」と思えるからだ。

でもその感情は実際の当事者と自分たちの間に壁を作る。

今回の地震で、そんなことを思い出した。

あれだけ自分のオフィスが揺れて、本棚とかが崩れて、たしかに今回は「当事者」になった。自分は帰宅困難者(帰宅難民)にはならなかったけれど、周りの人がなったから、確かに「当事者」の気分にはなれた。

でもテレビで流れている本当の被災地は違う。

それどころじゃない。地獄絵図なのだから。

今回の地震ではツイッターが効果を発揮したらしい。

でもどの程度だろうか。

確かに、都内で開放された施設や交通情報については効果を発揮したのだと思う。

では東北の被災地でどこまで役に立ったのか。

東京以外でスマートフォンがそこまで普及していないという話もある。ツイッターを使っている人もたいていは首都圏など大都市圏で、年齢層も20〜40代。

いわゆるガラケーでのツイッターは接続が悪く、ほとんど使い物にならなかった。

だからこそスマートフォンでの情報収集が役に立ったとも言える。

でも、そもそも、スマートフォンは充電しないと2,3日も持たない。

自分もリツイートをした。そうすることで少しでも人の役に立つんじゃないかと思っていたのかもしれないし、他のリツイートと同じで、好奇心でメモしただけなのかもしれない。

実際、メールも電話もネットも繋がらず、ツイッターなどでしか情報を収集できなかった人もいるらしい。

でも、なにか「ごっこ」をしている気がする。

テレビで「ここはこんな惨状です」とか「奇跡の救出です」とかひたすら報道しているけど、それは明らかに被災地の人を対象にしているのではなく、被災地の外にいる“観客”に向けられているものだ。NHK教育でひたすら安否情報をやっているのをみて涙が出た。

これが現実なのだ。

自分に出来ることは少ない。だから、背伸びをして「ごっこ」をするんじゃなくって、募金をするとか、友人に「大丈夫?」ってメールするとか、さっさとテレビを消して寝て少しでも消費電力を減らすとか、頑張って仕事してその分被災地にお金が回るように稼ぐとか。

なんかもやもやしたものがある。

今回の地震で被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。一日でも早い復興をお祈りいたし、犠牲者のご冥福をお祈りいたします。