カンボジア旅行備忘録

ログを見たら、去年の12月から更新していなかったらしい。うーむ、忙しかったわけだ。

そんなわけで、連休を使って、カンボジア、もといアンコールワットなどの遺跡群を旅行してきたので、とりあえず備忘録として時系列に網羅的に記しておく。いずれ整理して旅行記にしたいとは思いつつもこれまで一度も出来た試しはないんだけど、今回はどうなることやら。。。


○4月30日〜5月1日

アンコールワットがあるカンボジアには日本から直行便がない。そのため、バンコクホーチミンなどから経由してアンコール遺跡群のあるシェムリアップに行く。今回は羽田からバンコク経由のシェムリアップ。羽田発が翌5月1日の0:20発のTG661便。空港へは30日のうちに。この時間に羽田にいくのは、京急、モノレールともに空いていて快適。羽田で夕食。空港自体が24時間営業で、24時間あいている飲食店もあって便利という触れ込みだったのだが、さすがに22〜23時を過ぎると閉まるお店も多いので注意。まぁ夜中の3時とかに飛ぶ便がないんだから仕方がないんだけれども。

現地時間4:30にバンコク着。飛行時間約6時間。日本との時差は-2時間。シェムリアップへの乗り換え便のチケットを貰うカウンターが5時半にならないと空かないらしく待機。ベンチで寝たり、リクライニングのシートもあったりと、羽田より便利。本場の?レッドブルを飲む。今はこっちが亜流なんだっけ。ようは炭酸で割っていないため、リポデと同じ感じ。でもきっとカフェインはリポデよりも多いんだろうなー。

8時のPG903便でシェムリアップへ。9:10着。日本人は多くないのか空港でガイドとうちらだけに。(後日談ではあるが、どうやら、羽田バンコク便が人気らしく、アンコールに来ていた他の日本人はホーチミンなどベトナム経由が多かったよう。)この日は夕食以外は終日フリーで、かつ部屋へのチェックインが14時だったため、荷物を預けて早速市内を散策。その前に水を調達せねばと近くのスーパーに。水は500mlで$0.5〜$2。カンボジアは4000リエル=$1で、たいていはドルが出回っている。観光客だけでなく、現地の人もドルを使う。インフレだからなのか、それの方が便利だからなのか。宿の前にいるトゥクトゥクおっちゃんと交渉。紆余曲折の末、キリングフィールド、戦争博物館、文化村を回って$9ということに。

キリングフィールドはポル・ポト時代に、虐殺が行われた場所。骸骨が保管してある塔?があった。今は寺。戦争博物館は内戦時代の平気を雑然と展示している施設。軍のオフィスの隣の敷地に位置しているのが後で考えれば憎ましかったり。入場はドル$5。ガイドをしてくれた方は元少年兵というか民兵で自分らより5、6歳年上。で、内戦中に地雷を踏み足と片腕を亡くしている。早速ショックを受ける。その後文化村へ。時間は昼の13時。死ぬほど暑かった。以降の日程もツアーを使ったのだけれども、午前8〜12時頃に観光、13〜15時はホテルで休憩、15時半〜18時頃に観光というスケジュールだったんだけれど、それも納得。3〜5月がカンボジアは1年で一番暑いらしい。そして、タイとは違ってこの時期は乾期でスコールが一切ないため気温が下がらない。結構辛い。

トゥクトゥクのおっちゃんは$9の上物の客を捕まえたせいか上機嫌。他にも案内すると言うのだが疲れたため切り上げる。宿に戻りぐったり。

夕食はクメール料理。タイとどう違うと言われるとタイほど香辛料、特に唐辛子はきつくないかなという印象。そのあとナイトマーケットとパブストリートを散策。ナイトマーケットは観光用らしく、ホテルなどよりは安いけれど、結構値段設定が高め。


○5月2日
この日から遺跡観光。トムさんというガイドさん。お茶目で日本語が達者な30歳独身。宍戸開の若いときにそっくり。8:20に出発してアンコールトムへ。アンコールトムはアンコール=都市、トム=大きいなので、「巨大都市」という意味。寺ではない。日本で言えば平安京のようなもの。その一帯の中にバイヨンなどの寺や広場などがあり、そこを見学する。アンコールトムは仏教の寺。世界遺産なのに寺院の中に入れ、レリーフも間近で見られるのは良かった。が、地盤沈下などにより結構どの遺跡も年々修復が必要になっているにもかかわらず修復のペースが追いつかないのか、10年くらいしたら外から眺めるだけの遺跡も増えてくるのではとのこと。ちょっと残念。

飽くなき探求心を持つ?我々は、昼休みを使ってカンボジアの歴史講座を受ける。アンコール王朝についてがメインだが、ポル・ポトの話も。「昔はタイやベトナムカンボジアの土地だった」「タイの踊りや言語はクメールのものがタイに伝わったもので、タイに似ているのではない」など確かにプライドが高いカンボジア人だけれど、タイや中国などと違って、押し売りも激しくなく謙虚で素朴でまじめなかわいらしい一面もあると思う。そんなカンボジアでなぜポル・ポトのアレが起こったのか。

午後はアンコールワットに。その前にクッキー屋に寄る。結構買ったのだが$40。これって日本の観光地の土産とそんなに変わらない価格設定? 他の東南アジアだと空港で買わない限りは結構お手頃にお土産が買えたのだが、カンボジアは比較的“観光客価格”が多い気が。たとえばミネラルウォーターもエビアンだけ他の地元のものよりも4倍くらい(500mlで$2)したし。まぁこれは輸入だから仕方がないか。外貨獲得なのか、価格設定が下手なのか。アンコールも第3回路に昇ったり、夕日を見たりと大満足。正面付近が修復作業のため緑のビニールシートがかかっていたのがちょっと残念ではあったが。夕食はショーを見ながらクメール料理。その後フットマッサージに行ったのだが、どうも自分の施術師が見習いだったらしく、横でうちの相方に施術している師匠?にあーだこーだ言われながら、実験的にやっている感じがあって、疲労快復度は高くなかったんだけど面白かった。


○5月3日
アンコールワットでの日の出を見に、5時に出発。この日はバンテアイ・スレイ、タ・プロームを午前中に見学し、オールドマーケットを散策し、午後にタ・ケウ、バンテアイ・クディ、ニャックポアンの遺跡を見学。タ・プロームは遺跡が木の根っこに侵食されていてとても神秘的。自然の力って凄いなーと安直な感想を持つ。この日がどうも一番暑かったらしく、オールドマーケットと呼ばれる旧市場街を見学しているときは熱中症になりそうに。午後のニャックポアンあたりでようやく復活。人が少なくて良い遺跡だったかな。あんまりにも疲れたので夜にマッサージを受ける。タイ式。あれ? ちなみに本店が日本にあるらしい、ってあれ?


○5月4日
ベン・メリアを見学。結構離れているらしく半日かけて。「天空の城ラピュタ」に似ているとかなんとか。確かに崩れた遺跡の雰囲気は似ているけど、実際はモデルではないらしい。崩れた遺跡のなかをよじ登っていく(きちんとルートとしてあるところをガイドに従って行く限りでは安全)のはちょっとした探検っぽい。

午後はフリーで、夕方になったらパブストリートなどに散策に出かけようと思いきや体調が悪化。熱も下がらなくなってきたためあえなく病院に。紆余曲折の末、診断は急性胃腸炎。でも理由が思い当たらず。疲労なんだろうけど。保険に入っておいて良かった。請求額$300だもん。お土産袋になりそうなしゃれた袋に薬をいれてもらったり。結局最後の夜は薬を飲んでおとなしく寝ているのでした。


○5月5日
9:45発のPG924便でバンコクへ。バンコク14:20発のTG660で羽田へ。羽田は22:10着。が、帰国便が多いのと、羽田の国際ターミナルがあまり大きくないので荷物を受け取るところは結構混雑。でも帰国ラッシュって程ではないんだけど。飛行機に乗るだけの1日はもったいないとは思うんだけど、逆に最終日の夜に飛行機で翌朝着よりは1晩現地で寝られる分、楽しめるのかなとも思う。

まとめ。安直な感想ではあるんだけど、ポル・ポト時代を経験しているカンボジア人にとって「死」がとても身近なものだったことがうかがい知れた。あくまでガイドさんや講座の講師レベルではあるんだけど。兄弟のうち1人がポル・ポトに殺された、友達が地雷を踏んで亡くなった、などなど。国民の5分の1が短期間に殺された、内戦の地雷で亡くなったりした人がいた、というのがほんの10数年前まであったということは傷として心の中には残っているのかなと。でも、それを案外あっさりと話してくれるのは、自分が無礼にいろいろと聞いてしまったからなのかどうなのか。大変な状況だったことを考えるとよくここまで観光地として人が訪れるようになったことに驚く。ちなみに日本人に対しては友好的な様子。でも最近は韓国人が多いらしく、ハングルの看板も多く見られました。

バルサのサッカーは別格だ

玉乃淳というサッカー選手を知っているだろうか。厳密に言えば、元選手だけれども。

あのフェルナンド・トーレスアトレチコユースで一緒にプレーした選手で、ヴェルディに戻ってきたときには、ちょっとした救世主扱いされていた選手だ。現役であれば26〜27歳と脂がのっている世代(余談だけど僕と同い年)。

でも、結局はフィジカルトレーニングをいやがって、結局天才少年の域を脱せず終わってしまったというところ(僕の理解では)。このあたりはサポティスタの記事(http://supportista.jp/2009/07/news03091242.html)に詳しく載っている。

そんな彼が、最近サッカージャーナリストとして第2の人生を歩んでいる。

クラシコから今回のクラブワールドカップにかけてバルサ関連の記事がたくさん出されていたが、彼の論考が一番良かったのではないかと思う。4−3−3や3−4−3などのシステム論や、ディフェンスラインからパスをつなぐサッカーをすることがイコール、バルサにつながるし、それが一番魅力的なサッカーだというある種の空気に対抗して、バルサと違う哲学でバルサを超えようとしているモウリーニョを評価している視点は的確だし、バルサのまねをしてもあくまで量産型の域を出ないのはその通りだ。

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/1112/spain/text/201112120003-spnavi.html

さて、そんな訳で、今日クラブワールドカップバルセロナ対アルサッド戦を見てきた。

テレビではなく生で見て思ったのだが、「バルサはおかしいだろう」ということ。

パントキックを一度もしないゴールキーパー

ディフェンスラインからショートパスをつなぎ、自陣では基本的に2タッチ以内で回す。

ロングボールもショートパスも、トラップがぴたっと足下に止まる。

ワンツーがきれいに決まる。

マイボールの時から次どこにボールがくるかを考えて動いているから、相手ボールもセカンドボールもすぐに取れる。

あれは長年同じチームで、幼少期からたたき込まないとできないし、とうていまねできるものではない。

まねしようとしても結局は劣化コピーの域を出ない。

そんなことを痛感したし、改めてバルサのすごさを思い知ったのでした。

「ちづる」を見てきた

先日、「ちづる」という映画を見てきました。

http://chizuru-movie.com/

アエラやほぼ日で触れられていたこともあり、ご存じの方もいらっしゃると思います。

簡単に概要を説明すると、重度の自閉症と知的障害をもっている妹とその家族の約1年間をその兄が撮影したドキュメンタリーです。

率直な印象は、妹さんはかわいいということと、母親は強いなということ。

「こだわりをもつ」というのは自閉症に特徴的なことですが、そういったこととも、お説教臭く扱われるのではなく、自然に映しだされていたのは良かったです。

そして、主人(監督の父)が亡くなってしまったにも関わらず、上の子(つまり監督自身)を私立の大学に通わせながらも、下の子(つまり千鶴さん)の面倒を見、かつ犬まで飼うという監督の母親の力強さには、頭が下がります。

特別支援の先生をしている方曰く、「すごくうなずくシーンが多かった」とのことでした。また、「同様のお子さんを持っている親や、その周囲の人が凄く励まされるんじゃないか」と。

監督自身の卒業制作だったということもあり、監督自身の成長というか変化も垣間見えたのですが、最後の締め方も含めてちょっと唐突だったかなという印象はあります。できれば福岡に移った後についても扱って欲しいですし、監督自身の葛藤などについては別のかたち(パンフレットなどで内情吐露しても良いわけで)で補えれば、と思います。

でも、初々しさや素人臭さがかえって、等身大の家族を描き出すことに成功したのかなという印象も持ちます。

いずれにしても、楽しめた映画でした。

auのネット上のアドレス帳にコピーするのがうまくいかなかったので、試行錯誤してiphoneにアドレス帳のデータを移してみた

iPhone4Sが10月14日から発売されました。今回のiPhoneの最大のニュースはOSや新型による性能upよりも、auでも使えるようキャリアが拡大されたところでしょう。かくいう自分もauユーザーだったので、さっそく機種変更をしてきました。

auショップの店員の手際の悪さと人の流れの読めなささには辟易としましたが、それはともあれ、入手後に一大事がありました。

アドレス帳です。

本来であれば、事前にau-oneのサービスに登録して、PCと同期にするサービスなどに登録した上で、ネット上にアドレス帳のデータをupしておけば、iPhoneへ機種変更をすませたあとには、専用のアプリをいれてネット上にあげておいたデータをインポートすれば事足りるわけです。

が、どうも私の設定が不十分だったのかIDを紛失したのかは定かではないのですが、うまくインストールできない。

ということで、別の方法でインポートしました。

ガラケーのアドレス帳のデータをパソコンに移し、それをiTunes経由でiPhoneに入れる。

言うはやすしなのですが、それが結構試行錯誤の末でしたので、顛末を簡単にまとめたいと思います。ただし、これが正しいというか無駄ないやり方なのかどうかはわかりませんので、同様に試された場合で何か不具合が生じても責任は取れません。(2011年10月16日現在で私のiPhoneに不具合は起こってません)


ステップ1.ガラケーのデータをパソコンに移す
これは比較的簡単です。ガラケーにはマイクロSDカードなどを入れることができます。そして、ガラケーのアドレス帳のデータをSDカードにコピーすればよいのです。たいていはアドレス帳の画面でデータコピーなどという形でSDカードにコピーできるはずです。


ステップ2.パソコン上でcsv形式に変換する
ステップ1でSDカードに移したデータをパソコン移す。パソコン上で見るとそれがVCF形式のデータだということがわかります。これをcsv形式に変換します。変換は、「携帯アドレスデータCSV変換」というフリーソフトを使いました。

→参照リンク先

どうも私のwindows7だとソフトが文字化けしているのですが、なんとか類推で解読して変換は可能でした。csv形式なので、無事に変換ができればエクセルなどで見ることができます。


ステップ3.csvデータを修正する
エクセルの都合上なのか、変換後に開いたデータは電話番号が「="0312345678"」というように数字以外の余計なデータが入っています。おそらくこれはそのまま03〜から始めるとエクセルくんは数字の場合は0から始まる場合は0を省略してしまうからのようです。仕方がないので、コピペしてテキストファイルにして保存して、再度エクセルでインポート(その際に「文字列」の設定をする)して保存する際にはcsv形式にしてこれでデータ完成です。その際にいらない人のアドレスなどがあれば消すなど追加削除修正を行っても良いかもしれません。

→参照リンク先


ステップ4.アウトルックにインポートする
ここから先も試行錯誤だったのですが、アウトルックがある場合はそこにインポートさせて、その上でiTunesiPhoneに同期させる方法が一番楽なようです。そんなわけで、今のパソコンにしてから初めて!アウトルックを起動させてアドレス帳にインポート。ファイル→開く→インポートの順番です。あとは下記のサイト参照。

→参照リンク先

フィールドの一致できちんと設定すれば、ふりがなもきちんと参照されたアドレス帳になります。


ステップ5.iTunesで同期
最後はiPhoneに同期させます。パソコンにiPhoneをつなぎ、iTunes上のiPhoneの設定(「情報」というところ)で連絡先を同期という項目があるので、そこでoutlookと同期を選択すれば、iPhoneの連絡先にインポートされます。


ちょっと億劫ですが、何台かの携帯のアドレス情報をiPhoneにまとめたい、なんてときも上記のやり方でうまくいくかもしれません。

めでたしめでたし。

<参考リンク>
vcf形式をフリーウェアを使って汎用的なcsv形式(エクセルなどで修正が可能)に変換
http://www.vector.co.jp/soft/winnt/net/se348247.html


csvデータを修正
http://webpersons.jp/tips/2009/06/excel-csv-import.html


アウトルックにインポートする
http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0808/18/news103.html
http://call-t.blog.so-net.ne.jp/2008-07-13


アウトルックがない場合
http://alien.air-nifty.com/blog/2009/07/auiphone-5d30.html


iTunesに同期させてiPhoneへインポート
http://ameblo.jp/earvin/entry-10245637974.html

あれから1週間

松田直樹(以下マツ)が亡くなってから1週間が経ちました。先日は通夜および告別式が行われましたが、未だに信じられません。

亡くなったあとに病院を訪れた選手がみんな「いい顔をしていた」なんて話していると、本当は気絶していただけなんじゃないかと思ってしまいます。

本当に信じられませんし、ショックです。

個人的な話を申し上げるならば、7月30日のゼルビア戦を観戦したものの、その日マツは出場停止で勇姿を見ることが出来ませんでした。(さらに亡くなった8月4日は自分の誕生日だったり。)

でも、現実は現実。そろそろ受け入れなくてはなりません。

テレビもひどいもので、ホントに泣かせる映像を出します。何度号泣させられたことか。そしてエルゴラッソの1面。これまた凛々しいいい表情。

先日、松本には流石に行けないので、みなとみらいのマリノスタウンに献花をしてきました。

マリノスタウンの最寄り駅の新高島駅付近には花屋がないため、みなとみらい駅近くのクイーンズスクエア内にある花屋で花束を買ったのですが、そこの店員の方曰く、やはり献花用の花束の注文は多いようです。

平日だったので、人もまばらと思いきや、結構な数の花が置かれてありました。ここでまた涙。あんまり泣く方ではないんですが、涙腺がゆるんでしまいます。新高島駅に戻って花束を持った“同志”を見かけてまた涙。。。

ちょうど自分が献花しに言った日に、マリノスタウンで小学生のサッカー教室か何かが行われていたのですが、そこに来ていた小学生がマツをどうも知らなかったようで、それはそれで時の流れを感じさせられてショックでした。今の小学生って6年生でも2000年とか1999年生まれだもんね。

あまりにもマツについて触れすぎだという声もあるようですが、それだけマツが“愛されキャラ”だったんだなと思います。ショッキングな悲劇だけではここまでならなかったんじゃないかなと。上がったきり帰ってこなかったり、すぐ熱くなって赤紙を貰ったり、監督と衝突したり、髪型もちょくちょくいじったり。思った通りに行動する裏表のない人なんだと思います。

今言えるのは、そんなマツが大好きです。

最後に。昨日(8月10日)のJFLでマツが亡くなってから松本山雅が初勝利をしました。まだまだJFLも折り返しが過ぎたばかり。ラフプレーが多かったり、バタバタしていたりと心配きわまりないチームですが、ぜひともJ2に昇格して欲しいものです。

余談ですが、日曜日の佐川は“門番”の貫禄を見せつけましたね。

月末に松本で行われるマツのお別れ会には東京から馳せ参じようと思っています。

JFLの町田ゼルビア対松本山雅FCの試合を見てきた

野津田に集まった観客数


日本で、“ダービー”や“クラシコ”と呼べるような試合は何か、というのがNumberのサイト上で投票が行われていた。

静岡ダービー多摩川クラシコなどが挙がっていたのだが、Jリーグに限らないでいえば、松本山雅長野パルセイロの「信州ダービー」だろう。なんせ、J1のその下のJ2のさらにその下のJFLというプロアマ混合リーグで?万人の観客を集めるんだから。

そんな、信州ダービーを取り上げた知る人ぞ知るサッカーについてのドキュメンタリーに「クラシコ」がある。

JFL昇格をかけたこのドキュメンタリーは震災直後の3月に都内でも上映されていた。自分自身もJFL地域リーグなど「これからJリーグを目指すチームと純粋な企業チームの相克」を眺めるのが好きだったので、日ごろ結果だけはチェックしていたこともあり観賞した。サッカーを愛する人たちの日常が垣間見れて本当に良い作品だった。

そんななか、今年から、自分の愛するチームであるマリノスから松田が松本に移籍して、さらに気になっていた。そんなこともあり、今回、都内で松本山雅の試合が見られるということもあり、見てきた。

相手の町田ゼルビアもJを目指すチーム。Jリーグの審査を経て準会員になり、かつJFLで4位以内になればJ2に昇格できるのだが、昨年の町田は3位ながらも審査(スタジアムが基準に満たさなかった)ため昇格できなかったというチーム。昨年監督だった相馬直樹が川崎に引き抜かれながらも、今年は大分の降格決定後魅力あるサッカーを見せていたポポビッチが監督になっている。

会場に着いて驚いたのが人の多さ。JFLというとJ2の下だからと思って甘く見ることなかれ。球場外には屋台の車が並び、縁日のような雰囲気。そして、この日は夏休みということもあってか人も多くにぎわっていた。なんせ松本山雅は「クラシコ」でもわかるようにサポーターが熱い。この日もバスを何台もで駆けつけていたようだし、公園の駐車場にも松本ナンバーの車が多く見受けられた。そして、ゴール裏のサポーターの数は町田のそれをはるかにしのいでいた。

ちなみに、会場の野津田陸上競技場は町田や鶴川からバスで行く山の中の公園の中の競技場という感じ。のどかな場所で雰囲気は悪くない。むしろ、この日は人が多すぎて行き帰りのバスの運営などで手間取っていたのが今後の課題か。

試合については簡単に。前半はお互い守備を固めながら膠着した展開が続くも、後半になると、松田直樹を怪我で欠く松本がペースをつかめないなか、町田が手数をかけずに攻めて先制。その後もカウンターを狙う町田にしびれを切らした?松本がイライラを募らせ徐々に荒れた展開に。

退場者を一人出し(あのとび蹴りはどうかと思う)、カードを乱発する松本。点が入る気配はセットプレーしかなかった。自陣からドリブルで仕掛けて取られるという悪癖を繰り返す中、きれいなカウンターから町田が追加点。松本も終了間際に1点返すが、そのあと町田にとどめを刺されて万事休す。町田がJFLの「先輩」であることをうかがわせる大人の展開だった。でも1点取られたときは詰めが甘いなとも思ったけど。そして、挑発に乗りやすく、どんどん自爆していく松本。ちょっと心配。

試合内容よりも、会場とJFLの雰囲気を味わえて、非常に満喫できました。ちなみに、この日の観客数はなんと8113人。すごい。野津田の新記録だったそうな。

※松田選手は怪我ではなく、出場停止だったのですね。そして、今日の心筋梗塞の報道。本当にびっくりです。もともとマリノス時代から彼のファンだったのでショックです。回復を心よりお祈りいたします。(8月2日追記)

松田直樹選手が8月4日に亡くなりました。このことをこうやって追記するのが躊躇われるほど本当にショックで、今でも信じられません。観に行った試合の思い出とかいろいろとあるのですが、心の中が整理できないのでひとまず追記だけ。ご冥福を心よりお祈りいたします。(8月4日追記)

岡田武史氏講演のまとめ

5月31日に稲門政経会の総会がありました。その中で、岡田武史サッカー日本代表監督の講演があったので、概要をまとめたいと思う。自分のメモを元に起こしたものなので、細かいところは齟齬があるかもしれないが、ニュアンスは伝わるのではないかと思う。

 最初は震災についてお話ししたい。震災当日は講演をしていた。車で家に帰るまで8時間。帰宅後居てもたってもいられなくなり、ボランティアをしている人に被災地に連れて行って貰おうと思ったが、「今の段階で行っても足手まといになる」と言われ、もどかしい日々を過ごした。


 その後、落ち着いてから被災地に行く機会があった。物資を持って行ったり、現地で子どもたちとサッカー教室をしたり。子どもたちが目を輝かせながらボールを追っているのを見たときが、大人たちが一番喜んでいた。それをみて、スポーツにも出来ることはあるんだと感じた。それはもしかしたら自分を満足させるために行ったのかもしれない。


 今回の震災で自分の価値観が変わった気がする。

 福岡伸一さんから聞いた話だが、細胞が死んで新しい細胞が生まれているが、すべてを脳が決めているわけではない。脳が一定の方向性を決めているが、細胞が他の細胞と折り合いを付けてその中で決まっていることも多い。つまり、上からのヒエラルキーでなく、横のつながりの中で折り合いを付けてなんとかしている。


 自分は指導者としては「理論的」と言われていた。理屈は確率論。だから、確率論で詰めていけば、少なくとも守備は整備することが出来る。日本代表も「近くの前、遠くの後ろ」を合い言葉にした。


 マリノスでも選手を戦術でしばって優勝した。2年目、それがイヤになって、選手たちに「おまえら好きにやって良い」と言った。そしたら開幕から4連敗。慌てて戻した。そして優勝した。そして、3年目もう一度選手たちの自主性に任せてみた。結果は中位。いままではフランスのワールドカップ以降、監督は3年サイクルでやって、1年はワールドカップの解説をやるというプランだった(笑)が、マリノスではあきらめが悪くもう1年やった。でもだめだった。途中で辞任したが、結局は身内の不幸を理由に逃げた。そのとき、指導者としての限界を感じた。


 その後、指導者として役に立つことならと片っ端から勉強した。しばらくはJリーグからのオファーも受けなかった。オシムさんが倒れた時に、家族からはやらない方が良いと言われ、最初は自分もそう考えていた。でも「挑戦したい」という思いが勝って受けた。


 自分は「指導者は空のコップに何かを入れること」だと思っていた。あるとき、教育関係の方に「教育のEducationはエデュカールという“引き出す”という意味から生まれているんだよ」と言われた。カメルーン戦前までは、叩かれて叩かれてだったが、批判され続けるといかに力のある人でも自分を守ることに意識がいってしまう。そのときは選手たちが自分たちを守るのではなく、サポーター達を絶対に見返そう、と思ってくれた。その人の持っている力を最大限引き出すことが指導者として大事なのだと思う。


 監督をする中で、試合後にミーティングでビデオを見て、それまでは「ここは○○するべきだった」と言っていた。でも、それからは、「ここは良かった」ということを言うようにした。あまり「ここはこうする」と言い過ぎると、ノッキングが起こる。代表でも「中央突破ばかりしないでサイドを使え」と言っていたら、最初はボールを持ったときに考えちゃって展開が遅くなった。そしてある程度慣れてくると今度は中央があいているにも関わらず自動的に外にはたくようになってしまった。


 南アフリカの選手たちは、自分でリスクを負ってくれる選手たちだった。だからあと1試合やらせてあげたかった。カメルーン戦後、私たちはみんな「ゾーン」に入ったとも言うべき状況になった。言わなくてもわかる、繋がっているような感覚。一種の興奮状態。


 監督の仕事は決断すること。その根拠は後付けならばいくらでもできるが、決断するときは勘。開き直ることも大切で、そのためには腹をくくらなければならない。中沢から長谷部にキャプテンを代えたときも、勘だったが、腹はすえていた。中沢が飲んでくれなければ、メンバーから外すことも考えていた。でも中沢はその翌日に長谷部をランニングの際に先頭に促し、「あとは俺たちが支えるから」と彼に言ってくれていた。


 オシムさんのあとに、就任したときに「ベスト4をめざそう」と伝え、「紙の上にワールドカップベスト4と書いて、そこから逆算して何をいつまでにしなければならないか書くように」と言ったところ、それをワールドカップ後まで忠実にしていた選手がいた。そういう選手たちが多くいたのが南アフリカのメンバーだった。うまい選手を上から23人選べばよいわけではない。


 リーダーに必要なことはたくさんあるが、要するに志高き山に向かって必死になって上っていく姿をみて人はついていくのではないだろうか。南アフリカでなんであの選手たちをベスト4まで連れて行ってやれなかったのかと考えたときに、その山が足りなかったのではないかと思った。私は根本的には自分の家族と選手とその家族が笑顔で居てくれればよいと思っていた。そこにサポーター、日本人すべてが笑顔でと思っていれば結果は違っていたのかもしれない。


 南アフリカのメンバーたちは、本当に選手たちで考え行動し、自分でリスクを負う選手たちだった。彼らはそういう「遺伝子にスイッチを入れる」環境があった。いまの若い人たちにはそういう環境がない。若い人たちが悪いのではなく、そうさせた大人たちが悪い。過保護にしすぎ、空気を読ませすぎ、考えさせずに一定の方向、答えに連れて行きがち。若い人たちの「遺伝子にスイッチを入れる」環境をつくりたいと思っている。

 批判されると自分を守るように意識が言ってしまうというのは、とても的を射た発言だと思う。知人に官僚をしている人も多いそうで、昨今の官僚批判への批判も言外に感じられたような気もする。いまのザック・ジャパンの4−2−3−1か3−4−3かの論争を見ていると、どうも「選手に答えを言い過ぎているのでは」という岡田氏の懸念も感じられた。今日のチェコ戦では多少改善されたが、この前のペルー戦を見ているとどうも選手達はノッキングに陥っているのかな、大丈夫かなと思ってしまう。とはいっても、本田圭佑などは「システム論争はよしましょう」と言っているため、南アフリカでの自主性はまだ生きているのかなと安心もする。

 壮行試合での韓国戦以降の戦術の変更の真意など突っ込みたいところもあったが(それも「経験に基づく勘」なのかもしれないなと感じたが)、全体的には彼の考え方が伺えるとても良い講演だったと思う。